夢のいたずら

若い頃に描いた夢が、このブログに連れてきてくれました。人生まだまだこれからです。詩とエッセイを中心に書いています。

信教の自由

1,
 ぼくの家に金色の聖観音像がある。掃除をしないので、ほこりまみれになっている。たまに手を合わせている。ぼくの信仰は、その程度のものである。


 かつて、お経や禅の本を読んだことがあるが、それはあくまでも興味本位で読んでいただけであって、別にそういうものにのめり込んだわけではない。


 神社や古いお寺に行くのが好きであるが、それはすがすがしい気持ちに浸りたいから行くだけのことで、別に集会に参加したり、寄付したりしに行くわけではない。
 だいたいぼくは栄光ある孤立を望む人間だから、団体に属すとか、関わるとかいうことが大嫌いである。だからこの先も、宗教団体に入ることはないだろうし、家の宗旨である浄土真宗の活動をするようなことは絶対ないだろう。寄付も嫌だ。


2,
 むかし勤めていた会社に、ある宗教団体に入っている人がいた。会うたびに、「活動が大変だ」と言っていた。入信の勧誘、新聞の勧誘、選挙の時は電話をしなければならないらしく、選挙当日には、ご丁寧にも投票所に送り迎えまでするのだそうだ。
 何もそこまでして、宗教団体にのめり込まなくてもよさそうなものだが、彼に言わせれば、それが功徳になるのだという。
 その後、彼の勤め先は潰れたというが、彼は功徳を積んでいるから、そういう逆境もなんのその、さぞかし今はいい暮らしをしていることだろう。


3,
 JRで通勤している頃、駅前で宗教の勧誘をしている人をよく見かけた。ぼくも何度か声をかけられたことがある。
「あなたの幸せと健康と祈らせて下さい」
 見るからに胡散臭い男で、目は完全にイッていた。
「ぼくは幸せで健康です」
 そう言っていつも断っていた。


 ある時、「私がお祈りすると、観音様の三大パワーであなたは幸せになります」と言って来る人がいた。
 ぼくが意地悪く、
「三大パワーって何ですか? 観音経にはそんなことは書いてないけど、何のお経にそういうことを書いてましたか? ぜひ読んでみたい」
 と言うと、その人は相手が悪いと思ったか、「失礼しました」と言い、クルッと背中を向け別の場所に移動した。


 人に聞くと、あれも新興宗教の一種だという。ああすることで、その人は功徳を積むのだという。しかし、知らない人から突然声をかけられるというのは、気味が悪いものである。はっきり言って迷惑である。そういう迷惑を実践して、何の功徳が積めるというのだろう。迷惑に迷惑を重ねるだけの話じゃないか。
 もし仮に、そういう行為をぼくの友人がぼくに対してしたとしたら、確実にぼくはその友人を友だちリストから外すだろう。


 まあ、憲法で信教の自由が保証されていることだし、別に誰がどの宗教をやっているからといって文句を言うつもりはない。
「どうぞ、御勝手に」である。しかし、ぼくには関わらないで欲しい。

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