夢のいたずら

若い頃に描いた夢が、このブログに連れてきてくれました。人生まだまだこれからです。詩とエッセイを中心に書いています。

通学路

【牛小屋】
 ぼくの通った小学校は国道の西側にある。今は国道の東も西も住宅街になっているが、ぼくが小学生の頃は東側が住宅街で、国道の信号を渡り、一歩西側に入ると風景が一変した。突然ど田舎なのである。


 しかも、信号を渡り終えると、強烈な臭いがしてきた。牛の臭いである。そこには牛小屋があり、さらにその横手に牧場があったのだ。


 ぼくは、小学校に入ってから初めてその道を通った。まさか国道の西側が、こんな状況になっているとは思わなかった。とにかく小学校の6年間、ぼくはこの牛の臭いに送られて学校に行ったのだった。


【竹林】
 その牧場を通り過ぎると、竹林があった。運動会の時、弓を作るのためにお世話になった事がある。お世話になったとはいっても、持ち主なんかいるとは思わなかったので、勝手にそこにあった竹を拝借しただけである。しかし、そのせいで学校にクレームが入るようなことはなかった。


 その竹林には、もう一つの思い出がある。小学2年の時だったか、友人と家に帰る途中、急に友人が「しんた、ちょっと待っとって」と言い、竹薮の中に入って行った。何をしているのだろうと覗いてみると、なんと友人はそこで野グソをたれていた。


 その竹林が人の持ち物だとわかったのは、ごく最近のことである。実は、ぼくが借りている駐車場のオーナーが持ち主だったのだ。もちろん「昔、竹を勝手に切らせてもらいました。すいません。それと、友人が野グソをたれました。重ねてすいません」などとは言ってない。もう時効である。


 今はその竹林もなく、○○台という新興住宅地に変わっている。友人が野グソをたれた所には、○野さんという方の家が建っている。もちろんそのことを○野さんは知らないし、仮に知ったとしても、もう時効である。


【SL】
 その竹林を過ぎると、そこから道は線路と平行する。小学生当時はまだSLが走っており、ぼくたちが手を振ると機関士さんは汽笛を鳴らしてくれた。その頃はまだ石炭が盛んな頃だったので、貨物列車がしょっちゅう走っていた。


 学校は踏み切りの向こうにあった。そのため遮断機が下りている間、ぼくたちはいつもコンテナの数を数えていた。
だいたい50両前後だった。1両でも多い貨物列車を数えた時は、みんなに自慢したものだった。
「おい、今日60両あったぞ」
「うそつけ」
「ほんとっちゃ」
「じゃあ、今度61両のを数えちゃるわい」
 友人は悔しそうな顔をしていた。今考えると、どうでもいいことである。


【メダカ】
 線路脇には水路があって、そこにはたくさんの魚が泳いでいた。小学1年の時に「メダカの学校」という歌を習った時、ぼくは本当にメダカの学校があると思っていた。そこでその水路のふちに座り込んで、メダカの行方を追っていたことがある。しかし、どこにも学校はなかった。


 面白くなかったので、水路の中に大きな石を投げ込んだ。その水しぶきが2級上の女子にかかってしまい、服を汚してしまった。謝ろうかとも思ったが、その人はいつもツンとすましている人だったので、ぼくは「バーカ」と言って逃げた。今考えると、悪いことをしたと思う。が、もう時効である。


【田んぼ】
 農閑期になると、田んぼには藁が積まれていた。ぼくはこれを初めて見た時、そこにブー・フー・ウーが住んでいると思っていた。
「これじゃあ、狼に吹き飛ばされてしまう」と真剣に思っていた。


 高学年になると、ぼくたちはその藁の上で、空中回転やバク転の練習をしていた。その傍らで、ぼくらは思い思いに立小便をした。藁を積んでいた田んぼは、いつの間にか住宅地になり、地価もかなり高くなっている。まさかぼくらの小便で、値がついたわけではないだろう。


【幸せ者】
 高校に入った頃、ぼくの住んでいる所をド田舎と言った人たちがいたが、彼らは、
  牛小屋の臭いを知っているのだろうか?
  野グソをたれたことがあるのだろうか?
  SLの機関士に汽笛を鳴らしてもらったことがあるのだろうか?
  メダカを見たことがあるのだろうか?
  田んぼに積んである藁に触れたことがあるんだろうか?


 考えてみると、彼らはそういうド田舎に触れることなく成長していった、かわいそうな人たちである。密集した住宅地に住みながらも、ド田舎で学校生活を送ったぼくは幸せだった。


 ぼくが小学生の頃にあった風景は、今はもうない。今は普通の住宅地である。

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