夢のいたずら

若い頃に描いた夢が、このブログに連れてきてくれました。人生まだまだこれからです。詩とエッセイを中心に書いています。

「空を翔べ!」・・か

『全日本剣道連盟居合道二段』
 履歴書や申告書の特技の欄に、いつもぼくはこれを書き入れている。
 知らない人のために言っておくと、居合道というのは居合切りを競うものではない。真剣や模擬刀を使った『型』の修行である。だから競技会や昇段試験などでは、その型の善し悪しを評価する。
 その際一番重視されるのが、刀の抜き方や納め方の技術である。いくら型がうまくても、抜刀や納刀で手間取っていては評価が低くなる。
 ぼくが居合をやっていた頃は、壁の前30センチのところに立ち、そこですばやく刀を抜く練習をやっていた。また、手首にタオルを巻いて抜刀の練習をやったこともある。
 一時は居合に情熱を傾けていた時期もあったが、高校2年の時に二段を取ってからはその熱も覚めてしまい、そのうち道場には行かなくなった。


 行かなくなった理由はいろいろある。
「道場に通うのが面倒くさくなった」
「部活が忙しくなった」
「居合よりも、友だち付き合いのほうが大切になった」
 などであるが、もう一つの理由に、
「居合は実践向きではない」というのがあった。
 ぼくが居合を始めたのは、通っていた柔道場の先生が居合も教えていたからで、「武道だからやってりゃ何かの役に立つはずだ」という程度の気持ちだった。まあ、やっていくうちに刀の扱い方に興味が出てきたわけだが、それも長続きはしなかった。
 当時ビー・バップ・ハイスクール状態だった繁華街で身を守るためには、居合では役に立たない。江戸時代ならともかく、実践で刀が使えるわけでもないんだし。素手で戦う場合は、やはり柔道か空手、ということになる。それで、部活の柔道に専念することにしたのである。


 ところが今になって、「もう少し続けていればよかった」と後悔している。
 結局ぼくは『型』をなめていたのだ。『型』というのは、実践のエッセンスである。その反復練習で、実践が身に付くようになっている。その理屈を知らなかった、いや知ろうとしなかったのだ。
 もしかしたら、その反復練習の中で、何かを発見していたかもしれない。
 また、身を守ることに関しても、刀が使えなければ、刀に変わるものを工夫すればよかったのだ。もしかしたら、それが新しい武道に繋がっていたかもしれない。そうなっていたら、ぼくは開祖だった。


 今年の目標は「空を翔べ!」だ。ということで、これまでぼくがやってきたことを振り返り、何か今に繋がるものはないかと探している。居合もその一つだ。その発見が将来に繋がらないかと思っているのだ。
 さて、何をやって空を翔ぼうか。まさか、刀を持って飛行機に乗り込み、
「ぼくは『あしたのジョー』である」
 とは言えないしねぇ。

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