夢のいたずら

若い頃に描いた夢が、このブログに連れてきてくれました。人生まだまだこれからです。詩とエッセイを中心に書いています。

人生150年

 今読んでいる本に、午後11時から午前2時までは睡眠に充てたほうがいいと書いてあった。その代わり朝は早く起き、運動をしたほうがいいらしい。人間の体は、そうすることによって、健康が保たれるように出来ているということだ。


 なるほど、それで野生の動物は天寿を全うできるわけか。じゃあそうしようかと思ってみた。
『ところで、人間の天寿というのはだいたいいくつくらいなんだ?』
  と、それを調べてみた。すると、人間は120歳は生きるということだ。さらに今後は150歳まで伸びるという。


 150歳とすれば、今の60代後半は、その頃の120代後半と同じ年齢観になる。
 ということは、その頃の人間は90歳頃からリストラにあったり、老後のことを考えたりしだすわけか。年金も120歳くらいにならないともらえなくなるだろうから、定年が100歳とすれば、どこかで20年間働かなければやっていけない。求人広告も、「18歳以上90歳くらいまで」というふうになるのだろうか。


 ま、とにかく、その時代の60代後半というのは、「今時の若い奴は…」という年頃だろう。
 だいたい60代後半が高齢者などというのは、今の時代の価値観に過ぎない。価値観なら変えられるじゃないか60代後半を「今時の若い奴は…」の年頃ととらえればいいのだ。そうすることにしよう。


 ということで、ぼくはあと数年で70歳になるが、人生はこれからだ。残りの80年、何をして生きていこうか?

神が宿る

1,
 かつてぼくは、詩作や作詞作曲といった創作活動をやっていたことがある。


 その頃何度か『神が宿る』経験をしたことがある。そういう時は決まって眉間のところがむずむずしだし、そのうち意識が体の外にいるような感覚になってくる。そして、そういう状態になった時に、詩を書く手が勝手に走ったり、曲が浮かんだりしたものだ。


 まあ、詩作や作詞作曲を真剣にやっていたのは、もう40年以上も前のことだから、その前後がどういう心境にあったのかなどということは、あまり覚えていない。


2,
 30年前ほど前に、友人の結婚披露宴で歌を歌った時の話。


 その日ぼくは、オリジナル曲を歌うつもりで、朝から家で練習していた。練習しだしてから30分ほどたった頃だったか、急に体が温かくなり何かフワフワとした気持ちになった。


「おかしいな」と思いながらも歌っていくうちに、あることに気がついた。何と、意識が体の外に出て、その後ろでぼくが歌っているのだ。歌とまったく関係ないことを考えても、ちゃんとギターを引く手は正確に動き、口は確実に動き、声ははっきり出ている。


 練習を終え、披露宴会場に着いてからも、ずっとその状態は続いていた。その状態のまま、ぼくは舞台に立った。200人ほどの前で歌うものだから、若干の緊張はあった。が、緊張しているのは意識だけで、体はそういうことにお構いなく動いている。そして歌い終えた時、それまで味わったことのないような感動に包まれた。鳴りやまぬ拍手が、その感動に拍車をかけたのだった。


 先にも後にも、歌でこんな経験をしたことはない。おそらくその時、神が宿っていたのだと思う。


 集中力が高まった時に、これと似た状態になることはある。しかし、神が宿った時との決定的な違いは、それが自分の意思でなったのではない、ということにある。


 とはいえ、集中力が高まった時にも、神が宿ることはあるが、それは集中力の高まりの中にあるのではなく、集中力の一歩外側にあるのだ。


3,
 そのことがあって以降、そういう状態になったことはない。つまひ、神が宿る状態にならなくなって、すでに30数年の時が過ぎているわけだ。


 もちろん今は詩作や作詞作曲はやっていない。だが、今は日記という創作活動をやっている。それなら、一度くらいは神が宿ってくれてもよさそうなものだ。神が宿る日記とは、いったいどんな日記なのか、それをぼくは見てみたいのだ。

人生のヤマ

1,
 前の会社にKさんという方がいた。ちょっと変わった面白い人だった。


 ある時期、そのKさんが、手当たり次第に保険に入りだしたことがあった。誰もが、「Kさん、保険なんかに興味を持ってなかったのに、何でまた…」と言っていたものだった。


 それから数ヶ月たったある日のこと。Kさんが救急車で、病院に運ばれたという連絡が入った。何でも、Kさんが家で出かける準備をしている時に、突然倒れたというのだ。その後、再び連絡が入って、過労という診断だったらしく、一週間ほどで退院できるということだった。


 それから数日後。
 Kさんは、「せっかく入院したんだから、ついでに持病の検査もしてもらったら?」という家族の言葉に促され、検査をしてもらうことにした。ところが、その持病の部分に癌腫が見つかったのだ。さっそく手術を受けることになり、当然入院期間は延長となり、退院したのは、それから3週間後だった。


2,
 Kさんが入院していた時に、ある人が言った。
「あいつ、前に手当たり次第に保険に入っていたけど、何か虫の知らせのようなものがあったんかも知れんのう」
 そうだった。Kさんが、その数ヶ月前に多くの保険に入っていたことを、誰もがすっかり忘れていたのだ。


 退院後、Kさんに多額の保険金が入ってきたことは、言うまでもない。Kさんはその保険金で、家のローンを完済させたということだった。
 あれから十数年たつが、癌の再発などもなく、Kさんは今も元気である。


3,
 さて、Kさんはどうして多くの保険の契約をする気になったのだろうか?退院してから何年か後に、その『虫の知らせ』について、Kさん本人に尋ねたことがある。
「うーん。自分でもよくわからんっちゃ。なぜか、あの時そういう気分になってね」ということだった。


4,
 ところで、こういう場合、虫の知らせというのが妥当なのだろうか。


『虫の知らせ』
 この言葉を辞書で調べてみると、
「何の根拠もないのに、よくない出来事が起こりそうだと心に感ずること」(goo辞書より)、とある。
 まあ、仮にKさんが死んでいたら、そう言ってもいいだろうが、その後のKさんは、多額の保険金が入ってくるし、健康にもなったわけだ。だから、別によくない出来事ではないだろう。


5,
 では、こういう時、どう言ったら適切なのだろうか?『先見の明があった』というのが妥当なのか?いや、それなら、急に入りたい気分になる以前から、保険に入っていただろう。


 考えてみると、これは学生時代によく聞いた、「この問題が出るような気がして勉強したら、ズバリ出とった」というのによく似ている。そう、『試験のヤマ』が当たったというやつである。つまり、Kさんは『人生のヤマ』を当てたわけだ。何となくうらやましく思う。ぼくは、どんな小さな『人生のヤマ』も、当てたことがないのだから。

延命十句観音経霊験記1

1,
 ぼくは二つのお経を唱えることが出来る。一つが“般若心経”で、もう一つが“延命十句観音経”というお経だ。
 ぼくがこれらのお経を覚えたのは、昭和61年だった。


 20代後半のこの年に、ぼくは精神的に病んでいたことがある。あることに悩みを持ってしまい、それから抜けられなくなった。それが極まって、鬱に近い状態にまで陥ってしまったのだ。
 朝から心が晴れず、ちょっとしたことで沈みがちになり、すぐに自分の殻に閉じこもってしまう。自然、人と接触することも避けるようになった。
 一日のうちで心が晴れるのは、風呂に入っている時だけ。風呂から上がって、寝るまでの間はその状態が続いているのだが、朝になるとまた心が暗くなった。


 こういう状態が3ヶ月近くも続いた。


2,
 その間、何もせずに手をこまねいていたわけではなかった。「何とかしなければ」と思い、そのためにいろいろな本を読み、その解決法を模索したのだ。それは思想書であったり、自己啓発書であったりした。
 しかし、そういう本で心の状態は改善しなかった。


3,
 こういう場合、人に相談すれば少しは気が楽になるのだろうが、人と接触するのが嫌になっていたから、相談する気にもならない。
 たまに、ぼくのそんな状態を見かねて、「どうしたんか?困ったことがあるんなら相談に乗るぞ」と言ってくれる人もいたのだか、自分の心の状態を上手く説明できない。そのことがまた、心を暗くしていった。

昨日の運勢が良かった蚊

 ぼくはマンションの6階に住んでいる。エレベーター待ちのイライラという欠点さえ目をつぶれば、あとは長所だらけだ。


 長所を上げれば切りがないが、何よりもいいのが、この季節である。昼でも夜でも、思いっきり窓を全開できるのだ。ぼくと嫁さんはエアコンがダメである。とはいうものの、暑すぎるのも耐えられない。そこで窓を開けることになる。この階数だと、けっこういい風が入ってくるのだ。


 蚊が入って来ないということも長所の一つだ。マンションの横にちょっとした竹藪があるため、ヤブ蚊が発生しやすい。おそらく、4階くらいまでの家には入ってくるのではないだろうか?エレベーターを待っていると、よく蚊取り線香のにおいがすることがあるのだが、やはりけっこう多いのだろう。


 さて、昨日のことだった。夜テレビを見ていると、小さな虫がぼくの目の前を飛んでいった。
 ぼくは嫁さんに「今の虫、何か?」と聞いた。すると嫁さんは「蚊みたいよ」と答えた。
「何で、こんなところに蚊がおるんか?」
「知らんよー。どっかから入ってきたんやないんね」
「どこから入ってくるんか?」
「あ、さっきしんちゃんがコンビニから帰ってきた時に、ついてきたんやないと?」
「ああ、エレベーターの中におったんやの」


 そういう話をしていると、またしてもその虫は飛んできた。やはり蚊である。黒い体に、白いまだらが見える。ヤブ蚊である。ぼくは、手で叩いた。しかし、その蚊は素早く手の間からすり抜け、逃げて行った。


 それからしばらくして、今度は嫁さんがその蚊を見つけた。で、ぼくと同じように手で叩いた。ところが、今度も素早く手の間をすり抜けていった。


 こういうことを何度か繰り返したのだが、なかなか蚊は捕まらない。そこで、蚊が体にとまるまで叩くのを待って、とまったところを叩きつけてやろうと思った。


 目の前を、その蚊が何度か往復する。そのうち、だんだん高度を下げてきた。そして、思惑通りぼくの足にとまった。「チャンスだ!」と思い、ぼくは手を振り下ろした。


 ところがである。勢いよく振り下ろした手は、蚊を潰す寸前になって、なぜかブレーキがかかり失速した。
 マンガ『あしたのジョー』で、力石を死なせた直後のジョーのパンチが、そういうパンチだった。顔面に当たる寸前で失速してしまうのだ。そんなジョーのパンチを見て、段平は「蚊も殺せないようなパンチ」と形容した。ということで、ぼくも蚊を殺せなかった。


 その後、しばらく蚊は姿を見せなかった。そのうちぼくたちも、蚊の存在を忘れた。
 ところが、ぼくたちが見ているドラマの終わりがけになって、またもやその蚊は現れた。またしても格闘が始まる。 
 しかし、昨日は何度やってもだめだった。結局、その蚊は死なないまま、今日もまだ家のどこかにいるのだ。


 例えば星占いなどは生年月日で占うが、蚊にも生年月日があるわけだから条件は人間といっしょである。ということで、その蚊の昨日の運勢は、きっと良かったに違いない。