夢のいたずら

若い頃に描いた夢が、このブログに連れてきてくれました。人生まだまだこれからです。詩とエッセイを中心に書いています。

未来のこと

 人間の好奇心というのは、自分の未来に対して最も旺盛なのではないだろうか。
 将来どういう自分になっているのか知りたい、という人がいるかもしれない。あと何年生きられるか知りたい、と思っている人もいるかもしれない。若い人なら、あの人と将来結ばれるかどうかを知りたい、という人もいるだろう。
 そんなに遠くのことを考えないという人でも、例えば明日明後日のことだとか、一年後のことは、垣間見てみたいと思っているのではないだろうか。


 数年前のことだが、ぼくは福岡ソフトバンクホークスの優勝が近づいた時、ほとんどの試合を録画しておいた。それは、優勝の決定試合を収めておきたかったからだ。
 面白いもので、野球の試合を録画すると、中継やスポーツニュースを一切見たくなくなるものだ。その録画を見るまでは、絶対に結果を知りたくないからである。知ってしまうと、もう見たくなくなるのだ。


 もしかしたら、人が未来のことを知ってしまうと、野球録画の場合と同じようなことになるのではないだろうか。未来を知ってしまったから、もう何も努力したくないなどという人が出てくるだろう。そこには、未来を知ったからそうなったという、因果関係があるのだろうが。


 中には未来の自分の姿を知ってしまったがために、悲観して自殺するという人も出てくるかもしれない。しかし、自分が見た未来まで、その人は死ぬことが出来ない。きっと、その後その人は、未来を見たことを後悔するだろう。


 今ぼくは、10年後の生活を知りたいと切に思っている。その頃70歳を超えているが、それまで今の仕事を続けているのだろうか。いまだに住宅ローンなどを抱えているが、その頃には無事に払い終えているだろうか。そういうことが、今一番の関心事であるからだ。


 今日、ふと「そういうことを考える歳になったんだなあ」などと感慨に耽っていた。
 ところが、古い書き残しなどを見てみると、いつの時代もそういうことを書いてある。例えば76年のノートには「10年後、ぼくはいったいどういうなっているのだろう」などと書いている。そういえば、その頃から急に占いに興味を示しだしたのだ。


 しかし、もしその時に未来のことがわかってしまっていたら、いったいぼくはどうなっていただろうか。そう考えるのは、86年の自分が76年当時に期待していた自分になってなかったからだ。仕事にしても然り、恋愛にしても然りである。もし、その当時未来を知ってしまっていたら、おそらく悲観して何の望みも持てなかっただろう。


 やはり、未来を知りたいという好奇心よりも、未来はこうなっていようという想像力のほうが大切なのだろう。

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